二代目・Yasuプロフィール

幼少期~学生

  • 札幌市東区にて、理容師の父、美容師の母の間に産まれる。
  • 両親はいつも忙しく、お腹が空いていてもご飯を作ってもらえず、遊ぶのも一人で・・・という子供だったので、自分で工夫することを幼少の頃から学んだ。6歳の時に弟のHIROが産まれる。弟からは、人として欠かすことのできない多くのものを学んだ。今の自分の人間形成の元が両親、そして彼からと言っても過言ではない。
  • 中学・高校と英語の成績が異常に悪く、しかし理科は学年トップという変な成績だった。そのため希望する理系の大学には進学できず断念。経営者になりたい理由で手に職をと理美容専門学校へ進学。

美容師への第一歩

  • 1980年代後半北海道理容美容専門学校入学。ヨーロッパ研修旅行(ロンドン・パリ・イタリア)へ行って海外に目覚める。卒業と同時に掲げた目標は「30歳までに年商1億のサロンを持つ」だった。
  • 1990年代前半老若男女関係なく、人間の髪ならどんなスタイルでもできるようになりたいという思いから、ユニセックスサロンで住み込みで修行する。おかげで女性のワンレンから男性の角刈りまで(笑)、顔そりでも何でもできるようになる。コンテストにも明け暮れて数々の賞を獲得する。
  • 1990後半市内の若手理美容師を集めて技術指導をする。ボランティアで自分の教室を開いて夜中までテクニックを教えていた。年商1億のお店をオープンさせる夢を叶えるべく、通信大学にて経営学、経済学を勉強して、会社法(労働基準法)や会計学、ITを独学で勉強したのもこの時期。
  • 仲の良かった友達が立て続けに三人も亡くなり、棺おけに入っている親友の姿をみて人生観が360度変わった。友人のお姉さんがアメリカ人と結婚をし「海外では日本人美容師が全然いなくて困っている」という声を聞き、自分の技術が海外生活している日本人(アジア人)へ役に立つのであればと思い、さらに、借金をして店をオープンさせた所で、仕事&仕事で人生が終わってしまうのがバカらしく思え、昔見た夢を思い起こし海外へ出ようと決心する。

海外への第一歩

  • 2000年4月ロサンゼルスで日本人経営の美容室が求人を出しているのを発見し、手紙を送って渡米。しかし数ヶ月でオーナーが自己破産してしまいビザが出なかった。英語が全くできなかくて悔しい思いをしたので、一から英語の勉強をしようと決心し、日本へ戻ってお金を貯める。
  • 2002年2月オーストラリアに渡る。自分の名前と出身地を言うのが精一杯で語学学校ではレベル1から始まる。インポータントやディフィカルトの意味がわからず初日のオリエンテーションの説明は???だった(笑)

初めてのIELTS

  • 2002年3月永住権の申請ができるかもしれないとの事から、IELTSを試しに受けてみるも 2.0 という点数で笑えなかった(笑) 悔しくて日本語の全てを止めようと決心、日本人の友達は一人も作らず、シェアハウスもオージーと一緒に住もうと英語取得体制に入る。
  • 2003年2月約一年間、日本語の読み書き聞き話しを止めながら、英語の勉強も和英・英和辞書の使用もできるだけ使わないようにし、その結果IELTS 4.5まで上がる。

一番勉強した時期?

  • 2003年6月IELTS5.5に達し、Moreton TAFEのCertificate lll Business & Communication Skill へ進む、朝5時に起きて勉強→学校で授業→放課後図書館で勉強→夕食時に帰宅の生活で英語漬けに…。それでも授業についていくのが精一杯で泣きそうになりながらも単位取得、11月卒業。この時に、豪州での会社の立ち上げ方、税の仕組み、帳簿のつけ方やMYOB(会計ソフト)の使い方を学ぶ。

オーストラリアの理美容専門学校

  • 2004年2月理美容師に必要な専門用語を英語で、西洋人のカットやカラーの理論も覚えたい、卒業すると永住権申請に有利、という理由でMoreton TAFEのヘアードレッシング・コースを受ける。授業初日、先生も生徒も全員オージーで自分一人だけの外国人、ちょっとビビッて3cmあとずさり・・・同時期にメイクアップ・コースのサティフィケートも取得。メイクアップの基礎を学び、日本と欧米の違いを知る。
  • 2004年3月レジュメを作り就職活動をする。オーディションを受け2件の店で合格するも、こっちから断る、結果は以下のとおり。
    1. ステリオ・パパス・サロン→カット料金が77ドル~110ドルという超高級サロンとは知らずにオーディションを受け合格してしまい、「そんな高い料金では日本人は誰も来てくれないよ~」と言う理由から断りを入れる。でも練習会には数回参加させてもらいました♪
    2. シティにある某台湾人経営の美容室→オーナーと給料の話をするが「どうして君は働く前から給料の話をするんだ」と言われ、話にならなくて喧嘩わかれ。縮毛矯正に4時間かけて500ドル稼いでも時給15~だけで、残りの440ドルはオーナーのふところへ行く計算。店のシャンプー台は下水が詰まってゴボゴボだし汚くて、スタッフ達に挨拶をしても無視されるし、同じ日本人の男性美容師さんがいたのに無視されるだなんて悲しい限りでした(涙)
  • 2004年4月United Hair Salonにてレント制で働かせてもらう、家賃を払って店の中の椅子を借りて、シャンプーや消耗品は自分で仕入れるというシステムでしたが、自分で会社登録をして税金の計算をして払い、社会の仕組みを知る良いきっかけとなりました。しかしQLD州での面貸し(レントブース)は違法と知りビビる。
  • 2004年11月Moreton TAFEのCertificate lll in Hairdressingのコースを全て終了し、首席で卒業(経験があるから当たり前という話も(笑))でも英語は滅茶苦茶大変で、全員オージーの中での一年間の授業は大変でした。

オージーサロンからヘッドハンティング

  • 2004年12月Public Image Hairdressingから引き抜きの電話が突然かかってきた。僕の条件は「日本の薬剤を使わしてくれる事」「僕のアジア人のお客様へ、僕専用の料金設定をさせてくれること」の二つでした、快くOKをしてくれたオーナーに感謝です。
  • 2005年1月独立技術移住で永住権を取るために、あと1年学校へ通うという話をボスにしたところ「そんならスポンサーになってやる(英語)」となり、雇用主指名ビザを申請する事になり学校は無し、仕事に集中できる事になる。QLD州のフリーペーパーのコーナー「大変身Before & After」の連載を担当することに♪
  • 2005年2月働いてわずか2ヶ月目で、Pubilic Imageの中で個人売り上げトップに躍り出て、ボスは「何が何でもヤスのビザを取ってやる!」。僕の技術も気に入ってもらえてボスからの評価も上がる。
  • 2005年母校の理美容専門学校のパンフレットに、僕の特集記事が掲載されることになり寄稿し有名になる。内緒にしていたこのブログが小冊子に載り、一躍有名に。アクセス数も急上昇!
  • 2005年12月業界紙では日本でNo1の「しんびよう」から取材が入る。リイド社から、海外の理美容事情について原稿を依頼され、原稿用紙16枚(6400文字)を寄稿する。

ブリスベンでのプロモーション

  • 2006年1月ブリスベンの情報誌にて写真も撮ることになり、フォトグラフ・デビューか?
  • 2006年3月「仕事愛~誰もしらない業界の裏側、お話します」に僕の書いた原稿が丸々掲載され発売になりました。
  • 2006年4月毎年、寄らせてもらう母校での講演も板についてきて、異業種の会合でも講演をさせてもらう。札幌にて高校時の同期会開催、幹事長とパンフ作成&フォトグラフと会を仕切る(笑)準備にヘトヘト疲れ、体力的に持たずで2次会では撃沈。
  • 2006年6月某フリーペーパーの「Before & After」のコーナーが終了。さらにバージョンアップして新企画「なりたい私になる!」のコーナーを担当、紙面も倍に広がりメイクアップのコーナーも新設。写真も記事も僕が担当。
  • 2006年8月ビジネスビザの期限が切れ、延長を申請。サロンのオーナーの書類が送れギリギリ提出。
  • 2007年僕より長く働いていたスタッフが次から次へと辞めていき、自分が一番の古株になる。毎日、予約が全て埋まるようになり、自分の個人売り上げが、サロン全体の売り上げの50%を超えるようになる。日本領事館にて天皇誕生日パーティーに招待される。
  • 2008年予約を取るのも1~2週間待ちという状態が続き、お客さんには御迷惑をお掛けしてました。4EB-FMの日本語放送よりインタビューを受ける。
  • 2008年9月サロンは自分一人だけが忙しく、他のスタッフは毎日遊んでいるという状況のなか、Public Image Hairdressingが倒産、借金を踏み倒すための計画倒産だった。オーナーはすぐにPI Makeoverというサロン名で再出発するが、僕のビジネスビザでは働けない。

転機。新たな挑戦

    • 2008年10月自分でもビックリするような有名なサロンからオファーがきた。破格の条件も、お断りをする。自分の5年後の目標に近いものは、有名なサロンで雑誌やテレビの仕事をしコンクールに出ることではない。自分の夢に近いのは、ボロでもよいから自分のサロンを出すことと判断し、ゼロからの出発に挑む
    • 2008年11月某オフィスを自分で改造し、仮店舗としてオープン準備。会社名は「TANAKA TRUST」、ビジネスネームは「Y”s Hair Design」に決定。
    • 2008年12月予定通りの営業開始とはいかず、どうやっても大家さんの紹介してくれた配管屋が仕事すすまずクビ、新しい配管屋を探すことに。
    • 2009年1月23日オープン!Y”s Hair Designのスタート!
    • 永住権を申請するが結果が出るまで学生ビザを継続しなくてはならず週20時間の労働許可での営業
    • いつも予約が2週間、時には3週間待ちの忙しさで、お客さんに迷惑をかけっぱなし。
    • 2009年9月、移民法が改正され、1年待てば出るはずのビザが3年に延びると発表される。一度日本へ帰ろうか、他の国へ行こうか考える。結論は「自分を必要としてくれている多くのお客様を見捨てて帰れない」と、週に20時間労働でもいいから、「自分のためではなく、多くの人のために」という自分の原点を思い出し、学生をやり抜いてブリスベンにとどまることを決定
    • 日本から美容師さんを呼ぼうと求人募集を開始。自分と同じ志しの人意外はお断りというスローガンを決め人選に入る。多くの美容師さんに断わりを入れる
    • 2010年12月25日、今までカット面1台のサロンを4面で仕事ができるように、また板を張り、鏡を取り付け、一週間かけてサロンの改築に取り掛かる。おかげで正月はなし

2年目の展開

  • 二人の美容師さんから偶然にも同じ時期にメールが届く。どちらも自分より年上、自分より経験が上、永住権保持者。志は「海外で困っているアジア人のために、日本の生活を捨てて移住」。ここから新しいプロジェクトの開始。
  • 自分の秘書が必要と感じ、自分の給料が減っても良いから有能な右腕が欲しいと人選の開始。社会経験の無い女の子だったが、その隠れた才能はすばらしいものがあり惚れ込んでスカウト。Y”s Hair Desingの頭脳を発掘
  • 二人の日本人美容師が加わり、ブリスベン最強の美容師集団がスタート!

ビザ待ちで出国命令。

  • 提出していた永住権が2年待ちから3年待ちに変更になり、待っている間は国外に出ることとなってしまい、サロンを引渡し、一時日本へ帰ることに。
  • オーストラリアに戻れないのであれば、違う国でチャレンジしようと世界各国の日本人美容師募集のサロンに履歴書を送る。
  • 数カ国からオファーがあり、その中から唯一のヨーロッパだったドイツのサロンに決める。

ドイツ

  • ドイツのデュッセルドルフという街にある、日航ホテル内の美容室で仕事を開始。
  • 滞在期間に、パリ、ベルギー、オランダ、ベルリンなど小旅行へ行く。
  • 芸術に触れ、美術館、バレエ、クラシックなどの分野に魅了される。
  • 英語が話せた事で、(英語を話せる)ドイツ人の友達がたくさんできて、ドイツの歴史や教育、文化などの話しを聞けた。

2012年10月

  • オーストラリアの移民局から「貴方の申請したビザは許可がおりるまで『無期限』ですとメールがきて、海外生活はひとまず終えて、実家の北海道札幌市のサロンに拠点を移すことに決定。
  • 突然、札幌に帰って来ても、自分の顧客はゼロなので、週末3日だけ集客しながら実家のサロンで働く。
  • その他の曜日は、英語力を保つために、英語を使う仕事をしようと探す。
  • 某旅行会社の海外事業部で週4日働く。週3日美容師。もちろん元旦もクリスマス休みもゼロ。
  • 約一年間、中学生に英語の家庭教師を始める。
  • 海外でお世話になったお客様達の一部の方々が東京で生活をしていて、毎月、東京の表参道の美容室まで出張する
  • 表参道の美容室「KIND」というサロンは、社長がヘアメイクで、ももクロの専属だった。
  • 芸能プロダクションと契約しているサロンだったので、アイドルや女優、モデルなどが通う美容室だった。
  • ここのKINDで、東京で最新のトレンドや技術、良質の薬剤などを教えてもらう。

2014年7月

  • ヘッドハンティングを受けて「山野〇子銀座本店」に移動する。
  • 銀座では、契約社員として、ブロンドのヘアカラーを教育し、美容師向け英会話教室、美容師のためのメンズカット教室などを企画から教える現場までさせて頂いた。

2015年10月

  • 5年前に申請したオーストラリアの永住権が下りた。

2016年2月

  • YAMANOの契約期間が終了したため、恵比寿の美容室でフリーで働く。
  • せっかく永住権が出たので、それを活かすために、日本とオーストラリアを移動して働くことに。
  • 偶数月をオーストラリアで、奇数月を日本でと分けて、海外ノマドのスタートを切る
  • 偶然、ブリスベンの街のド真ん中で、10年前の教え子だったニュージーランド人の美容師とバッタリ!彼は独立して自分のサロンを持っているとのことで、そこの1席を借りて働く場所も決まる

2020年2月1日

  • コロナ禍の始まり。世界の感染者数が中国の次に日本が多く「いま日本へ戻るのはクレイジーだ」と周りから言われていたが、日本へ戻る。
  • 英文で出ていたCovid-19(コロナ)の論文などを読み、自分の判断でノマドワークを継続することに

2020年4月

  • 札幌⇔代官山⇔横浜と周りながら仕事を続ける

2020年10月

  • ノマドワーカーでフリーランスを法人化「NAMALA合同会社」を設立
  • 面貸しで出入りしていた横浜の美容室のオーナーさんから後継ぎのお話を頂く。
  • 2年後に世代交代をするための準備を始める。僕の条件はフリーランスを続けること、札幌にも仕事で留守にすること、6年後は現店長にバトンタッチをして、僕は経営を下りること。

2021年1月1日

  • オーストラリアのお客様へ新年の挨拶と同時に、オーストラリア出張を辞める旨を伝える。これで海外生活にピリオドを打ったことに。
  • ブリスベンのお客様の協力の下、置いてあった荷物を全部日本に送ってもらった。
  • 毎月、2週間を東京代官山と横浜、残り2週間を札幌と、ノマドワークを継続

2022年11月1日

  • 横浜の美容室の経営を全て一任しスタートを切る。
  • 年間64日しかなかった休日を、合法化の120日にするなど、大改革をすすめる。

2024年4月

  • 本拠地を札幌に移し、札幌3週間、東京横浜1週間の割合で移動してサロンワークをする。